- 2006-08-28 (月)
- Way Of Living
ダライ・ラマ自伝 Freedom In Exile - ダライ・ラマ著 (1990年作)
久しぶりに家族で飯食ってた際の、「あれ、あのダライなんちゃらって何した人だっけ?」なんて他愛もない会話が興味のきっかけで、その後手にとって読んだダライ・ラマさん本人による自伝。内容は1950年代から現在(1990年)未だ進行中の、チベット国の悲惨な歴史を自身の体験記として書き残したもの。その社会的・仏教的に高い地位とは裏腹に、フランクでユーモラスな文章に惹かれました。その中でも、特に印象に残った文章を、引用の形でここに残しておきたいと思います。
コンテンツ一覧
- チベット基礎知識
- 西欧社会について
- 宗教は薬のようなもの
- 物質的発展と精神的発展はどちらも大切
- 創造力を発揮するためには、人は自由でなければならない
- 自然環境について
- 幸せは心の平安と充足感から生まれるもの
- すべてのものの基本的合一性
チベット基礎知識
そもそもチベットってどこ?何が問題になってるの?悲惨な歴史って?などの基礎知識については以下のサイトがわかりやすく説明してくれています。まずはご一読を。
- 【超入門 チベット問題】 チベット問題って何? - 長田幸康さんのサイト「I Love TIBET!」より
- 現在のチベットの状況 - ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
西欧社会について
p.309 1967年?1979年
全体としては、西欧社会にはいろいろと印象深いものがあった。とくに、その活力、創造性、旺盛な知識欲には頭が下がった。が一方では、西欧社会の考え方にいくつかの疑念を抱くこともある。その一つは、物事を「黒と白」、「あれか、これか」で考え、相互依存性、相対性を無視する傾向である。つまり二つの観点の間には灰色の部分が必ずあるという目が欠けているように思われる。
宗教は薬のようなもの
p.310 1967年?1979年
先にいったように、すべての宗教は人びとをより良い人間にしようと願い、思想的相違、ときには根本的な違いがあっても、いずれも人が幸福になれるよう望んでいるというわたしの固い信念に基づいている。これは何も「世界宗教」「超宗教」といった種類のものを首唱しようというのではない。わたしはむしろ宗教を薬のようなものだとみている。医師がさまざまの痛苦にたいしさまざまの治療を施すように、すべての人間の精神的病いが同じでないかぎり、さまざまの精神的医薬が必要とされるからである。
物質的発展と精神的発展はどちらも大切
p.354 1979年
このことは、あらゆる宗教といかなる物質主義的イデオロギー間にも対話がなくてはならぬように、仏教とマルキシズム間にも対話が存在し、存続してゆくことが何よりも大切だというわたしの信念をさらに強めてくれた。人生への二つの接近方法はあきらかに補い合うものである。だのにまるで正反対の対立者のように考えられがちなのは実に残念なことだ。もし物質主義と技術が真に人間の諸問題解決の道であるなら、大部分の先進工業諸国はいまごろ、天国のような笑顔に満ちていていいはずだ。だがそうではない。同様に、もし人びとが精神的なことだけにかまけているとすれば、それぞれの宗教的信条に従ってみんな幸せに生きてゆくかもしれないが、進歩というものがないだろう。物質的精神的発展の両方こそが必要なのだ。人間性は停滞してはならない。停滞は一種の死だからである。
創造力を発揮するためには、人は自由でなければならない
p.373 1982年
わたしにかかわる五項目については、なぜ中国政府がわたしの個人的地位をそれほど重視するのかいっこうに解せない。われわれの戦いのなかで、わたしは一貫して六百万同胞の権利、幸福、自由をのみ追求し、自分自身のことなど気にかけたことはない。わたしは、国境その他諸問題のことだけをいっているのではない。人間性にとって何よりも大切なのは、その創造力だと信じるがゆえである。そこでさらに、この創造力を発揮するためには、人は自由でなければならないと信じるからである。わたしには亡命のなかでも自由がある。三十一年間難民としてそのことの大切さをいささかなりとも学んできた。それゆえ、わが同胞が己自身の国で同じように自由を享受しないかぎり、わたしがチベットに戻ることは間違いだと考える。
自然環境について
p.414
もし自然のバランスを壊せば、苦しむのはわれわれすべてだ。さらに、今日生きている人間同様、将来の世代のことを考えてゆかねばならない。きれいな環境は、その他の権利と同じく人間的権利なのだ。だからわれわれが引き継ぐ世界は、うんと健康なものでないとしても、今のわれわれが置かれている状態よりは健やかなものであることを次の世代に責任をもって約束しなくてはならない。(中略)
この点仏教僧として、カルマ(行為、業、因縁)の思想が日常生活を導くうえで非常に役立つのではないかと思うゆえんである。もし起因とその結果との関係を信ずるなら、己の行為が自分自身と他者に及ぼす結果にもっと注意深くなるだろうからだ。
それゆえ、チベットの重なる悲劇にもかかわらず、わたしは世界にもっと善いものを見出すのである。なかでもわたしは、消費そのものを目的とする消費者優先主義が、われわれ人間は地球の資源を保護しなくてはならないという正しい判断に道を譲りつつあることに勇気づけられるのだ。これは非常に大切なことである。人類はある意味で地球の子供なのだ。これまでのところ、われわれ共通の「母」は子供たちの行為をゆるしてきたけれど、彼女は今やその許容の限界に達したことをわたしたちに告げている。
いつの日にか、環境その他に対するこの懸念のメッセージを、中国の人びとに伝えることができるだろうと祈っている。仏教は中国人にとって決して無縁ではないのだから、実践的な方法で彼らに奉仕することができるだろうと信じている。
幸せは心の平安と充足感から生まれるもの
p.414
この苦しみは無知によって引き起こされており、人は己の幸せと満足を得んがため他者に苦痛を与えているのだと固く信じている。しかし真の幸せは心の平安と充足感から生まれるものであり、それは愛他主義、愛情と慈悲心を培い、そして怒り、自己本位、貪欲といったものを次々と根絶してゆくことによって獲得できるものなのだ。
すべてのものの基本的合一性
p.417
愛と慈悲の心を育ててゆくうえで、わたしにとっては仏教が役立っているが、愛や慈悲といった資質は、宗教があってもなくてもだれにでも深めてゆけるものだと確信している。そしてわたしはさらに、すべての宗教はみな同じ目標を追求していると信じている。方法こそ違っているように見えても、目標は同じなのだ。
わたしたちの生活に、科学がますます大きな影響を及ぼすにつれ、宗教と精神性もまたわたしたちの人間性を考えさせるうえでいっそう大きな役割を担ってきている。両者の間に矛盾はない。どちらも互いへの貴重な洞察をもたらしてくれる。科学と仏陀の教えはともに、すべてのものの基本的合一性をわたしたちに告げているのだ。
関連エントリ
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Comments:2
- みっこ 2007-01-27 (土) 20:43
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「調整さん」をいまごろ拝見しましたが、素敵すぎます。かゆいところに手が届くといいますか。待ってたこんなシンプルなの。そういう感じです。
ところでダライ・ラマ。宗教者としてだけでなく、ひとりの現代人としても魅力的な方だと思います。 - bashi 2007-01-27 (土) 23:34
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> みっこさん
調整さんお褒めの言葉ありがとうございます。(こっちのブログで紹介記事書くのすっかり忘れています・・・)> ひとりの現代人としても魅力的な方だと思います
ですねー。自分が彼の立場だったら、あの笑顔は出来なさそう・・・。